🔵Project "tmd" 先行レヴュー全文掲載
- 2023/08/29 16:19
- Category: memo
※Project "tmd" プレスリリースより6ページ目「先行レヴュー」のみを抜粋して掲載致します。
美術/舞台芸術ジャーナリストの新川貴詩さんと、キュレーター/メディアアート研究者の高橋裕行さんによるクリティックを、是非お読みください。
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新川貴詩さん 美術/舞台芸術ジャーナリスト
(プロフィール:https://news.yahoo.co.jp/expert/authors/shinkawatakashi )
■ パフォーミングアーツ・ユニットEt in terra paxの有村肯弥が久しぶりに舞台芸術活動を再開した。その第一弾『AMO - Music from Project "tmd"』は、音楽作品であると同時に演劇作品でもある。どの曲も、時間が巧みかつ綿密に構成されている。そして、現実ではないもうひとつの世界をのぞかせてくれる。この点において、『AMO』の試みは演劇と言えるのだ。
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高橋裕行さん キュレーター/メディアアート研究者
(プロフィール:https://twitter.com/hyt )
■ 母国語はコンピュータのOSのようなものである。OSが違えば、その上で走るアプリケーションも違う。外国語が話せる人でも、母国語から自由になるというのは相当に難しいことである。日本語の場合には、発音の上では、子音に母音が必ず付くというルールが特徴的であり、日本語らしさを生み出す。他に、あいまい母音の少なさ、強弱のアクセントの無さ、高低のアクセントの種類の少なさもある。表記としては、いうまでもなく、漢字、カタカナ、ひらがなの併用という部分に大きな特徴があり、日本語は歴史上、中国や欧米の新しい事物や概念を、次々と日本語化して取り入れてきた。日本人の頭が日本語から離れることは難しい。耳も口も日本語にチューンナップされているし、カタカナ語もすっかり身についている。まったくゼロから自由に言葉をつくって喋って良いよと言われても、普通の人にはなかなかできることではない。本作で話される「架空の言語」は、私にはフランス語や韓国語のようにも聞こえる。子音が多いからかも知れない。しかし、実際、どの国の言葉でもない。そして、ラジオのDJのように、誰かに向けて淡々と話され、ブロードキャストされる。大笑いや鳴き声、叫びのようなものは排除されている。コンセプト文を読むと、「親密な者」に向けた言葉ということだが、なるほど確かに、落ち着いた調子の声である。そして、それが楽曲としてアレンジされて配信される。かつてピアニストのグレン・グールドはラジオ番組を作ったことがある(『孤独の3部作 The Idea of North』1967年、CBCラジオ)。それは彼らしく、いくつもの言葉がフーガのように絡み合うものだったのだが、それを想起させもする。
さて、その「架空の言語」で話されている内容は、当然私たちには理解できないのだけども、テーマは「脳の働き」なのだという。なるほど、知覚、言語、注意、記憶、判断、想像といった認知科学的、あるいは脳科学的なテーマが背後にはあるようだ。例えば、夢を見ているとき、私達は日常の言語的思考から少しだけはみ出している。通常ではあり得ない展開や言語化しがたい体験がそこにはある。あるいは、赤ちゃんが話す喃語(なんご)を思い出してみよう。大人の話す言語のような「意味」はないけれど、彼らは彼らなりの言語活動をしている。これらは、普段は見る(聞く)ことができない、脳のOSとしての機能を垣間見るものと言えよう。本作は、その部分にアプローチしようとしている。
本作は、コンセプチュアル・メディア・アートだという。コンセプチュアルアートというのは1960年代後半に発明されたアート様式で、従来の絵画や彫刻のような物質性にとらわれない、思考や概念に重きを置くアートであり、必然的に言語やパフォーマンス、写真や郵便の使用を伴うものであった。他方、メディア・アートの定義は難しいところだが、狭義にはコンピュータなどの先端テクノロジーを使用したアート、広義にはそれらのメディアテクノロジーが人や社会にどのような影響を与えるかについて批評的に考察したアートといえよう。一般にメディアというと、マスメディアやSNSの印象が強いが、原義に戻れば、「何かと何かの中間」にあって、「媒(なかだち)するもの」という意味である。例えば、中指のことをラテン語ではdigitus mediusという。親指や薬指に比べると、中指というのは指の形状や機能を示しているのではなく、中間に位置するという相対的な意味を持っているのである。それらを踏まえた上で、コンセプチュアル・メディア・アートとは何か、を考えてみると、一つの解釈は「概念的なメディア・アート」である。メディア・アートにもいろいろあるが、本作は、最新、最大、最速を謳う、いわゆるスペクタクル系のメディア・アートではない。もう一つは、コンセプチュアル・アートの系譜を、現代のメディアテクノロジーを使って作ったもの、という解釈。たしかに、60年代、70年代に、架空の言語を用いたパフォーマンスがあってもおかしくない(実際あるかも知れない)。しかし、それがデジタル加工され、Youtube配信されるというところは、現代=2023年ならではのものだと思う。いずれにせよ、なぜ有村が音楽ではなく、アートと名乗っているのか、考えてみることが重要だと思う。
美術/舞台芸術ジャーナリストの新川貴詩さんと、キュレーター/メディアアート研究者の高橋裕行さんによるクリティックを、是非お読みください。
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新川貴詩さん 美術/舞台芸術ジャーナリスト
(プロフィール:https://news.yahoo.co.jp/expert/authors/shinkawatakashi )
■ パフォーミングアーツ・ユニットEt in terra paxの有村肯弥が久しぶりに舞台芸術活動を再開した。その第一弾『AMO - Music from Project "tmd"』は、音楽作品であると同時に演劇作品でもある。どの曲も、時間が巧みかつ綿密に構成されている。そして、現実ではないもうひとつの世界をのぞかせてくれる。この点において、『AMO』の試みは演劇と言えるのだ。
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高橋裕行さん キュレーター/メディアアート研究者
(プロフィール:https://twitter.com/hyt )
■ 母国語はコンピュータのOSのようなものである。OSが違えば、その上で走るアプリケーションも違う。外国語が話せる人でも、母国語から自由になるというのは相当に難しいことである。日本語の場合には、発音の上では、子音に母音が必ず付くというルールが特徴的であり、日本語らしさを生み出す。他に、あいまい母音の少なさ、強弱のアクセントの無さ、高低のアクセントの種類の少なさもある。表記としては、いうまでもなく、漢字、カタカナ、ひらがなの併用という部分に大きな特徴があり、日本語は歴史上、中国や欧米の新しい事物や概念を、次々と日本語化して取り入れてきた。日本人の頭が日本語から離れることは難しい。耳も口も日本語にチューンナップされているし、カタカナ語もすっかり身についている。まったくゼロから自由に言葉をつくって喋って良いよと言われても、普通の人にはなかなかできることではない。本作で話される「架空の言語」は、私にはフランス語や韓国語のようにも聞こえる。子音が多いからかも知れない。しかし、実際、どの国の言葉でもない。そして、ラジオのDJのように、誰かに向けて淡々と話され、ブロードキャストされる。大笑いや鳴き声、叫びのようなものは排除されている。コンセプト文を読むと、「親密な者」に向けた言葉ということだが、なるほど確かに、落ち着いた調子の声である。そして、それが楽曲としてアレンジされて配信される。かつてピアニストのグレン・グールドはラジオ番組を作ったことがある(『孤独の3部作 The Idea of North』1967年、CBCラジオ)。それは彼らしく、いくつもの言葉がフーガのように絡み合うものだったのだが、それを想起させもする。
さて、その「架空の言語」で話されている内容は、当然私たちには理解できないのだけども、テーマは「脳の働き」なのだという。なるほど、知覚、言語、注意、記憶、判断、想像といった認知科学的、あるいは脳科学的なテーマが背後にはあるようだ。例えば、夢を見ているとき、私達は日常の言語的思考から少しだけはみ出している。通常ではあり得ない展開や言語化しがたい体験がそこにはある。あるいは、赤ちゃんが話す喃語(なんご)を思い出してみよう。大人の話す言語のような「意味」はないけれど、彼らは彼らなりの言語活動をしている。これらは、普段は見る(聞く)ことができない、脳のOSとしての機能を垣間見るものと言えよう。本作は、その部分にアプローチしようとしている。
本作は、コンセプチュアル・メディア・アートだという。コンセプチュアルアートというのは1960年代後半に発明されたアート様式で、従来の絵画や彫刻のような物質性にとらわれない、思考や概念に重きを置くアートであり、必然的に言語やパフォーマンス、写真や郵便の使用を伴うものであった。他方、メディア・アートの定義は難しいところだが、狭義にはコンピュータなどの先端テクノロジーを使用したアート、広義にはそれらのメディアテクノロジーが人や社会にどのような影響を与えるかについて批評的に考察したアートといえよう。一般にメディアというと、マスメディアやSNSの印象が強いが、原義に戻れば、「何かと何かの中間」にあって、「媒(なかだち)するもの」という意味である。例えば、中指のことをラテン語ではdigitus mediusという。親指や薬指に比べると、中指というのは指の形状や機能を示しているのではなく、中間に位置するという相対的な意味を持っているのである。それらを踏まえた上で、コンセプチュアル・メディア・アートとは何か、を考えてみると、一つの解釈は「概念的なメディア・アート」である。メディア・アートにもいろいろあるが、本作は、最新、最大、最速を謳う、いわゆるスペクタクル系のメディア・アートではない。もう一つは、コンセプチュアル・アートの系譜を、現代のメディアテクノロジーを使って作ったもの、という解釈。たしかに、60年代、70年代に、架空の言語を用いたパフォーマンスがあってもおかしくない(実際あるかも知れない)。しかし、それがデジタル加工され、Youtube配信されるというところは、現代=2023年ならではのものだと思う。いずれにせよ、なぜ有村が音楽ではなく、アートと名乗っているのか、考えてみることが重要だと思う。